29 Aug 2016

ブルキニの着用について

いま世界で注目されているニュースの一つは、
仏裁判所、ブルキニ禁止措置を凍結 ではないでしょうか。

ブルキニとは、イスラム教徒の女性が
顔と手足以外を隠して着用できる水着のことです。

フランスのビーチでこれを着用している女性が
フランスの警察官に囲まれ、脱がされるという事件が、
世界中に波紋を呼びました。

脱がせた理由としては、テロ対策の一つのようなものでした。


私自身、多文化主義 擁護者としては、
「ブルキニ禁止とは差別としか言いようがない!」
と主張したくなるのですが、

日本に住んでいる限り、そういう論争に至る以前に
そういう人を見かける機会が極めて少ないため、
どこか遠くで起きている出来事のように感じてしまうのも事実です。

外野で騒いでいるような、そんな感覚です。


日本だって、いつテロが起きるかわからないはずなのに、
どこか日本は安全だって思い込んでいるところがあると思う。

それよりも、目の前の台風のこととか、
巨大地震の方が身近で心配。


イスラム教の人を日常的にいろんな場所で
当たり前のように目にし、共存し、
そしてテロの被害にあっている国となれば、

もっと目くじら立てて、
テロに対する恐怖心を
「イスラム教」という大きなくくりの中で
何の危険性もないはずの人に対しても過剰反応してしまうのは、

ある意味しかたないという言い方はおかしいけれど、
必死な状況に置かれている結果なんじゃないかとも思ってしまいました。


ただ、だからって、他人の自由を奪うのは間違っています。

その人が傷ついたり悲しい思いをさせられたら、
それは正義ではなく、個人への攻撃であって、いじめと同じです。


イスラム教というものに対しての理解をもっと深めていかないと、
表面的な情報による偏見や差別によって、
過激な思想を助長してしまうのではないでしょうか。

個人への攻撃が、また憎しみを生み、他者への攻撃へ変わってしまう。
負の連鎖は止めないといけない。

25 Aug 2016

2016.8.25 外国につながる子ども

在日外国人の子どもへの日本語指導についての
勉強会に参加してきました。

私の日本語ボランティアでは子どもの参加者はいないのですが、
子どもの教育現場について知識を得られるチャンスだと思い、
飛び込んでみました。



子どもが言語を習得していく成長過程から、
日本語と母国語のどちらも日常生活レベル止まりの習得だと、
表面的な会話では流暢に見えていても、
実際に学習面で何かを論理的に説明する際に障壁となり、
その後の子どもの社会経験に影響を及ぼすということを学びました。

発達障害なのか、
言語自体の取得が不十分なために学力が振るわないのかは、
明確に判断する方法が無いのですが、

そのどちらかなのかを判断することが大事なのではなく、

まずはその子どもが今できることに寄り添い、
一つ一つサポートしていくことが一番大事だということだそうです。


ただし、日本にやってきた子どもたちにはいろんな家庭の事情があり、
日本語を学ぶことに意欲を示さない子もいます。

間違えたり笑われたりするのが恥ずかしくて、
ずっと黙っている子もいるそうです。

でもそれを、無理強いして日本語を話させたりせずに、

その子の発達段階とニーズをしっかり把握し、
その子の性格や好みに合わせたアプローチから、
日本語を学ぶメリットをその子に伝えて一緒に練習していくことが
ステップだとも学びました。


また、日本語を学校で一生懸命 勉強しているのだから、
家庭でも母国語ではなく日本語を話すよう強要すると、

その子の母国の文化に対する自尊心が損なわれたり、
親と片言で話すことになり深い内容の会話をする機会が奪われてしまうので、

学校では日本語で日常会話とそれ以上のレベルに引き上げていく練習をし、
家庭では母国語で日常会話とそれ以上のレベルで親と会話をしていくことが、

その子の根本的な論理思考を養っていくことにつながるそうです。



…と、おおまかな内容のまとめです。

子どもの成長過程や、外国から来た子どもの気持ちなどを学ぶ機会は
いままでなかったので、大変勉強になりました。



また同時に、私としては、
海外から来た子どもと接している日本の子どもたちや、日本の学校教育現場に
非常に興味があります。

どのように共生・理解しているのか。

ここに私の研究テーマがあります。

13 Aug 2016

自分のやりたいこと (アイディアレベル)


今度は、自分が何をやりたいのか、
まだ確定ではないけれど、
一つの案として挙げたいと思います。

できれば「お金が無い」になりたくないから、
お金に不自由しないくらいしっかり稼ぎたいと思うのが
本音ではあるけれど、
どうしても私の目指すことはお金にはならない・・・

でも、これができたら
世のため人のため自分のためになるのは確か。


その案というのは、
子どもたちへの多文化共生教育です。


まだ漠然としていますね。(笑)



一番いま私がやっていて充実感を味わうのは、
日本語ボランティアのように、

外国人(英語圏問わず)と直接話し、
それぞれの文化の違いや、
そんな堅苦しくなくても
それぞれの好きなもの・興味あるものについて話し、
新しい考え方に触れたりすること、

困っていることがあれば、何か私にできることはないかと考え、
ただゆっくり話を聞いてあげることです。

ひとりひとりの人間が、国籍を超え、
相手を尊重しながら心を通わせられること、

こんなに嬉しいことはありません。


ただこれは、いまもこれからも、ボランティアでできること。

このことからお金を得るのは正直難しいでしょう。
お金で得られる価値ではない。



では、何を将来 仕事としてするのか。


私が子どもに着目したのは、
やはりどんなに大人になって新しい知識や考え方に触れても、

子ども時代に培われたものが
結局は一番大きな影響を
その人の人格形成に与えると思うからです。

親や、学校教育による影響は本当に大きいと思う。


だからこそ、私が子ども時代に、
たまたま英会話を始めて 他文化に興味を持ち、
市で開催された国際理解教育プログラムに参加し、
異なる人種・種族・文化への平等な見方が
結果的に育まれるような本に出会ったように、

国際理解教育・多文化理解教育・多文化共生教育になることを
ワークショップとして子どもたちに向けて開催したり、

子どもたちの豊かな人格形成に役立つような
児童文学を推奨したりすることをしたいと思っています。


NGOでできるなら、それでも十分良い。

実際、
教育現場では「アクティブラーニング」というのを
導入する動きになってきているけれども、
どうしたら良いのか先生たちは困惑して、
NGOなどの団体に協力依頼しているようです。


もしくは、
この手の研究を進めていらっしゃる大学教授・研究者の方とお近づきになれたら、
ぜひご一緒させていただき、共同開発がしたい。


そのために、私はいま自分の実力と知識の底上げが必要。


大きすぎる話に聞こえますか?

私は2020年までに、何か形にするつもりです。


世間的に東京オリンピックが節目になっているようですが
それは関係ありません。(笑)

自分の年齢の節目を一つの目標にします。

12 Aug 2016

自分のなりたい姿

公園のベンチに座って、
郊外の田舎風景を眺める。

公園の緑は青々と輝き、
隣の畑では蝶が舞い、雀が土の上で遊ぶ。

蝉が鳴き、
心地の良い風がそよそよと包み込む。

目の前で5分に一回くらい
電車が滑らかにやって来ては通り過ぎ、

夏空に浮かぶ雲はのんびりと流れる。

わずかに聞こえるのは、
少し離れた市民プールで
はしゃぐ子供の声のみ。


穏やかだ。とても。


忙しかったり、
毎日のルーティンワークに追われると、
空を見上げたり
季節の移ろいを感じることを忘れてしまう。

こんな穏やかで満たされた気持ちになったのは
久しぶりな感じがする。


私のやりたいこと、
というか、
なりたい状態とは、

都会の喧騒や
くだらない小競り合いから離れ、
穏やかに自然に囲まれて暮らすこと。

でも、
毎日 寝て起きて 日が出て沈んで…
というだけじゃなくて、

自分の大好きな人たちに囲まれて過ごしたい。


それが一番私にとって、
穏やかに生きていける暮らし方だと思う。


ただ、
私はそれだけでは満足できないことも
自分でわかっていて、

何かしら自分で
向上心を持ってやれることとか、

誰か必要としてくれる人のために
力を尽くすことが、

私がよりよく生きるために必要なんだ。


大好きだと自分が思える人たちを増やし、
繋がりを作り、
一緒に季節の移ろいを楽しみながら
その人たちのために、私は何かをしたい。



「苦あれば楽あり」
若いうちに苦労して、
年取った時にやっと楽が出来る

というようなことを
よく人は言いますが、

それは本当でしょうか。


確かに、金銭面ではそうかもしれません。
蓄えが無ければ、
好きなことにお金を使うのは難しいでしょう。

でも、老後のために…と思って
苦労を続けた矢先に
突然 病気や事故に遭って、
自由が利かなくなったり
死んでしまったら、何にもならない。

体力も無くなるから、
若いうちにたくさん遊んでおいた方がいいと
おっしゃるご年配の方の意見も
聞いたことがあります。
特に海外旅行とか。


私は
「死ぬ」という感覚はありませんでしたが、
症状的には死にかけたことがあります。

結果的には今 元気だし、
やり直しが効きそうなので
もう一度挑戦する計画がありますが、

当時 目前に控えていた"やりたいこと"を
実現するチャンスを失いました。
それからもう4年が経ってしまいました。

だから、
「人生いつ死んでも悔いがないように生きる」
というのが私のモットーです。


苦あれば楽あり。
マイナスがあるからプラスがある。

そんなニュアンス、私は嫌いです。

まるで、必ず
マイナスを味あわなければ いけないみたい。


生きるものすべては、
幸せを感じ、幸せに生きる権利がある。

「毎日幸せ」って思って暮らすのって、
「プラスばっかりで幸せ」って
若いうちからも思えるようにするのって、

いけないことではないし、
怠けでもサボりでも贅沢でもないはず。


ただ、もし「苦」の意味が
苦しみを強いられるということではなくて、
自発的に臨む努力のことを言うならば、
それはとっても良いことだと思います。



多文化共生とか世界平和の問題って、
人々の余裕の無さから生まれるものも
多くあります。

時間が無い
お金が無い
心の余裕が無い

この3つの"無い"が一番、人を不幸にさせる。

どうやったらバランス良く補えるのか、

どれかが立つとどれかが立たない
ってなりがちなんだけれども、

それをうまく自分なりに
バランス良く成り立たせていくことが
大事ですね。


今の私は、お金が無いを解消するために
何をして、どう生計を立てていくかを考える時ですが、

それ以上に今日は
とても満たされた気持ちです。


自分の幸せなくして、
他人を思いやるのはとても難しい。

平和ボケを思われるかもしれませんが、
今回は、自分の幸せについて考えてみました。

2 Aug 2016

TED: Human trafficking is all around you. This is how it works

今度の内容は、人身売買についてです。

ジャーナリストとして人身売買について
研究しているNoy Thrupkaew氏が、

これまで打ち明けなかった
自身の経験も盛り込みながら、
人身売買がどこか遠い国で起きている出来事ではなく、
とても身近であり、
日々 我々も関心を持って
何ができるかを考えなければならないと訴えています。

人身売買は、売春などの性的搾取だけではありません。

以前の記事でも紹介したように、
日本の牡蠣の養殖場でも起きています。

日本には美味しい食べ物が溢れていますが、
実際、私たちが楽しく美味しく頂いた食べ物で
犠牲になっている命は
(たとえ死に至ってなかったとしても)
どれだけ影に隠されているのだろう…